2月○日/64 「マナーからルールへ」


 やすおは仕事で四谷に来た。
50分ほど電車に乗り改札を出て、外へと続く階段を登る。
「へえ、やれやれ…」
煙草を一本抜き出し、おもむろに火を点けようとするとそこに、こんなポスターが…。
「マナーから、ルールへ。厳しいのは条例ではなく、モラルをなくした現実です。」
路上喫煙の禁止を定めた千代田区生活環境条例のポスターだ。
外では黄色いジャンパーを着た区の職員達が、なにやら喫煙者どもを駆逐するキャンペーンを展開している。
「チッ」
中年は苦々しく舌打ちして、出した煙草を元の箱にねじ込んだ。
肛門を引き締めながらやっとトイレにたどりついたのに掃除中…、それに準ずるいきどおりだ。
 年々喫煙者の肩身は狭くなっている。
煙草は健康を害する。またその煙を周りの人にまで吸わせる事は良くない、そのぐらいの理屈は中年にも解る。
駅構内の禁煙、禁煙の飲食店の増加、ポイ捨て禁止等々、不承不承従ってきた。
またたび重なる値上げ、足りない税収はとりあえず喫煙者からふんだくっといてやれ的な、
安易で不当な値上げにもじっと耐えてきたのだ。
 それがいきなり 「厳しいのは条例ではなく、モラルをなくした現実です。」 なのかよ…。
悪癖をやめられないサル並の扱われ方だ。
 煙草は確かに体に悪い、しかしそれは労働者の憩いだったり、りっぱな発明や芸術を生み出す
名脇役だった側面もあるわけだ。ばっさりぶった切るのは少々乱暴すぎやしないだろうか?
 それにこの文言にはすりかえがある。
モラルの目にあまる悪化のためやむなく取り締まりました的なニュアンス…。
確かに日本の喫煙者のモラルが高いとは思わない。
しかしそれは昨日今日始まったことではなく、もともとずーーっと悪いのだ。
17から42まで四半世紀吸わせていただいた身からすれば、
今日ほど喫煙者のお行儀がいい時代はなかったといえる。
この、自分の家のわたぼこりも掃除できない中年が、
街の美化のため、携帯灰皿を持ち歩くようになったのだ、目を見張る進歩ではないか。
マナーはかつて無いほど向上しているのだ。
それは 喫煙者も時代にそうべく気を遣い、努力してきた結果だ。
それを行政が、なぜこうまで偉そうに、一方的に言い放てるのか?
中年にはまるで理解できなかった。

 友人の話がふと頭に浮かんだ。20年程前彼は中国東北部のハルピンに行った。
厳冬にもかかわらず道端で寝ている人がいる。
さすがに寒い国の浮浪者はタフだわいと思い、よく見ると凍って頬が地面に張り付いていた。
 たばこを吸いながら歩いている彼のもとに警官が走ってきた。
そして友人の煙草を邪険に払い落とし、
「こらっ、ここで煙草を吸っちゃいかん」と怒鳴った。
「はあ?」
「罰金払え、罰金」
「・・・。」
友人は要求された倍の金額を警官に支払った。
「いや、こんなにはいらん」警官は半分返そうとした。
友人は「いや、いいんだ。二本分だから」
そういって新しいたばこに火をつけ、おもむろに一服すると、
あっけにとられた警官達の目の前で、地面にたたきつけた。

 「ああ、やってみてえ。千代田区職員の前でギュイギュイ踏みニジッてやりてぇ…」
中年はやや遠い目でつぶやいた。
「違反者は20000円以下の罰金に処されまーす♪」黄色いジャンパーが叫んでいる。
「二本分4万か…。」
 待ち合わせの時間までにはまだ20分程ある。中年はドトールコーヒーに入った。
一番安いブレンドコーヒーを注文し、税込み189円を支払うと、
コーヒーと灰皿をトレーに乗せ、おとなしく喫煙席に向かった。

                           おわり